多磨霊園について

 林宗院HPでは「多摩墓地」と記していましたが、「多磨墓地(現在の多磨霊園)」が正しいことが、増上寺で講演をなされたことがある武村雅之氏(株式会社小堀鐸二研究所副所長 )の指摘により判明しましたので、HPの該当記事を訂正して、「多磨霊園」についての正しい由来と歴史を以下に記します。(武村氏には深く感謝申し上げます。編集者)
 
多磨霊園とは。

もともと1900年(明治33年)ごろの東京市には5つの公営墓地、青山墓地・谷中墓地・染井墓地・雑司ヶ谷墓地・亀戸墓地がありました。しかし、東京市の市街地化と人口増加に伴い墓地不足となり、東京市外での墓地の造営が必要になりました。

東京市公園課は欧米諸国都市における墓地研究の結果、1919年(大正8年)に東京郊外の東・西・北に広い公園墓地を創設する計画を立てました。そしてこの計画を基にして、1920年(大正9年)に東京市の西に当たる多磨村が選ばれ、その2年後に多磨墓地の造営が開始されました。この場所が選ばれた理由としては、同地はほぼ未開地であったことや、甲州街道や京王電気軌道・北多摩鉄道・中央線など郊外としては交通網がそろっていたからだと言われます。そして、1923年(大正12年)に開園しました。計画における残りの北・東の墓地は、それぞれ小平霊園、八柱霊園として完成したのです。

供用開始されたものの、東京市街から離れていたこともあり、使用する者はあまり多くありませんでした。しかし1934年(昭和9年)に東郷平八郎元帥海軍大将が名誉霊域(7区特種1側1番)に埋葬されたことにより多磨墓地の名前が広まり、これ以降利用者が大幅に増え、現在のような人気の霊園の一つになったのです。

近くに調布飛行場があることなどから、太平洋戦争後期は三式戦闘機の隠蔽や修理をするためにも使われました。今も一部の施設に機銃掃射の弾痕が残っています。

その後利用者が増え、1963年(昭和38年)以降は新規区画がなくなり、現在では改葬整理などで空いた場所のみの使用募集となっています。また、1962年(昭和37年)の芝生墓地や1993年(平成5年)の壁型墓地(13区)やロッカー式納骨堂であるみたま堂・合葬式墓地など土地を有効利用できる都市型の墓地も導入されています。 

  この記述は「ウィキペディア」から引用しています。
引用した「多磨霊園」の項の最終更新期日は 2011年10月14日 (金) 15:16です。
「ウィキペディア」の特性上頻繁に更新される可能性があるため今後の訂正はできません。

戻る